「お話が、あります。」

聞いていただけますか。
といつもとは違う穏やかさを含んだ声で夫がそう言ったのは数刻前だった。
暮らしなれた何もない寂しい部屋に二人向かい合って暫く。
話があると呼び出した方である筈の夫と言えば、
相も変わらず何かを切り出そうとしては言いにくそうに口を噤んだりを繰り返して
一向にその話とやらは始まらない。
きっと、自分を傷つけない為の言葉を探しているのだろう。
馬鹿な人だ。
最後の最後だってのに、慣れないことなんかするもんじゃない。
それでも苛立つ心を抑えて辛抱強く待った。
待つことができた。それができるようになった自分に、少し驚く。

「…初めに、謝ります。」

ようやく夫の口からでた言葉はそれだった。
夫は自分に向かって深々と頭を下げ、真剣な面持ちでこちらを見つめた。
意を決したように向き直りながら、少し青ざめた顔でたどたどしく話し出す。
自分でも気持ちを整理しきれない、そんな様子だった。
それでも、その気持ちが本物だということに気づいたからこそ、
こんな風に自分と向き合って話す気になったのだろう。
ならば自分も夫に真摯に答えなければならなかった。

「自分でも、愚かだと思います。こんなことになって、こんなときになって、自分でも思うんです。
　今更に過ぎる、今こんなことを言うなんて。貴女は怒るでしょう。大層困ることでしょう。
　俺は本当に、愚かな男です。義父上にも、何も、俺は、俺は結局、貴女に」
「……もう、いいですから。」

途中から半ば苦しそうに吐き出された夫の言葉を途中で制する。
貴方らしくないと言えば、そうかもしれません、と夫は苦笑した。
その顔が酷く痛々しく思えて眉を顰める。
そんな風に恥じ入ることも何もないのだ。胸を張っていればいい。
いつも不機嫌な顔をしている自信はあるのに些細な変化まで読み取ってしまう夫が
この度もまた自分の気持ちの乱れに気づき、彼までもが眉を顰めた。
ため息をつく。本当に、馬鹿な人だ。
こんなときまで、そんな嫌なところは変わらないなんて。

「そんなの、今に始まったことじゃないでしょう。」

皮肉めいて言おうとした言葉は思っていたよりもずっと優しい響きを持って口から零れた。
それがどんな意味合いを持っているのか気づいてしまって、自分こそらしくないと思う。
それでも以前より穏やかな気持ちで居られるのは、こんなところまで来てしまったからだろうか。
きっとこんな日がいつか来ると思っていた。こんな日がいつか来ることを望んでいた。
自分でも驚くほど素直に、夫の言葉の続きを促した。

「だから聞かせてください。貴方の、お話を。」

答え、出たんですね？
そう尋ねれば夫は軽く目を見開き、その顔は一瞬悪戯を咎められた子供のように歪んだ。
それから一度目を閉じて小さく息を吐いて、
夫は笑って、これまでになくまっすぐ自分を見つめて自分の名を呼んだ。
夫婦だというのに始めからずっと変わらない丁寧な物言いが何故だか急に懐旧の念を誘った。
昔は嫌いだった。この男が嫌いだった。結婚なんて嫌だった。自分も子供だった。
それがそうでなくなったのは、いつだったのだろう。
夫の出した答えはもうとっくに分かっていた。だから覚悟もとっくに出来ている。
夫の変化も、答えも、嘗て自分が望んでいたものそのものだった。
だからそれを笑って受け入れて、武士の妻らしく背中を押すべきだと分かっていたし、
そうしようと、そうしたいと思っていた。背筋を伸ばして笑おうと思って、
息が一瞬、詰まった。

「らく、私は」

（…どうして、あの時が懐かしいと言うの）

気づけば自分と夫は抱きしめあう形になっていた。
夫が抱きしめたのか、それとも自分が抱きついたと言うのか。
思い出せはしなくとも、柄にもなくこのままこうして居たかった。

「…ない…すまない、私は、私はどうしても、このまま終わりたくないと思っているのです…」

微かに震えるそれはまさしく自分が初めて聞いた夫の心の底からの望みだった。
夫が父のように今は亡き太閤様の御恩に報いる為に戦うこと、
夫が自分自身の意思を持ってそれに従って生きていくこと、
その二つとも嘗ての自分が望んでいたことで、ずっと望んできた筈のことだった。
だからこの夫の変化を喜んで笑って受け入れて、
武士の妻らしく背中を押すべきだと分かっているのに。

（変わってしまったのは、同じ。）

ずっとこの日を望んでいた筈だった、震える自身に必死に言い聞かせる。
これでいいのだと、喜ぶべきことだと、変わり果てた自分を必死で押さえつけた。
少なくとも、歯を食いしばってそうしてもいいくらい、
この夫の最初で最後になるだろう我侭を、精一杯許してやりたかった。
自分とこの男は、夫婦なのだから。
あと少しで蓋が閉じるもう一つの衝動が、せめて最後の抵抗だとでも言うように
謝り続ける夫の背中に手を伸ばしてしがみ付かせた。

「いってらっしゃいませ、信繁さま。」

え～と…似たもの夫婦だっていう話です。
信繁さんの大坂入城の動機は単に「このまま終わるのは嫌だ！」ってのだといいです…
っていうか私は真田家から義の香りを感じな（強制終了）
それに信幸と離れて昌幸が死んで初めて自分から思うといいなぁ、という話。
それに気づかせてくれるのが嫁だといいなぁとい話。

そんなことを言いながら結局二人は居なくなってしまった。
責めるつもりは毛頭ないが、昌幸は少し恨めしくも思う。
（否定した冗談話が、結局真実になってしまったな。）
自分もやはりあの時長篠で死ぬべきだったのだろうか。
いや、そうは思わない。
生き延びて一族の者たちとここに在ることは昌幸の誇りだった。
一族を愛し、家族を愛し、嘗てと変わりなくここまでやって来た。
”俺たちは皆で丁度いい”
”兄弟相争うことこそが罪、か”
嘗てのやり取りが鮮明に思い起こされる。
あの時口にこそしなかったが、その通りだと昌幸は思った。
自らの思い描く未来を、あの時は屈託なく信じていた。
だが結局信綱と昌輝は死に、今信尹は昌幸の隣には居なかった。

（信幸。）

ふと、嫡男である息子の顔が頭に浮かんだ。
そして同じ顔をした次男の顔が浮かび、仲の良い兄弟の姿が浮かんでは消えた。
昌幸の自慢の息子たちだった。幼い頃からずっと、仲の良い兄弟だった。

（信幸、信幸何故分からん。何故俺の気持ちを分かってはくれぬ）

苛立ちを隠しきれずに昌幸は舌打ちをし、顔を覆った。
石田三成から届いた密書。
それは真田の運命の先を今までになく大きく揺らがせるものだった。
昌幸は家康につくつもりはなかった。あの男は気に入らなかった。
勿論個人的な事情それだけではないが、どうしても昌幸は家康にはつけなかった。
しかし信幸は家康につくべきだと言うだろう。
それこそ私情を挟むことなく、真田の未来を案じて。
信幸の顔を見れば分かる。信幸はきっと、昌幸や信繁と共に来ることはない。

（信幸、何故分からん。お前には信繁が必要だ。あやつにもお前が必要だ。そして）

それでも昌幸は一縷の望みを捨て切れはせずに古ぼけた小屋で二人の息子を待ち続けた。
ふと、あの脇差が欲しいと詮無きことを思った。
あの脇差が今手元にあったのなら、このような思いに駆られることもないのでは――
しかし事実、脇差は昌幸の元になどありはしない。
やがて二人分の足音が聞こえ、ゆっくりと引き戸が開かれた。

嘗ての脇差は信綱がそれ以降も自らの守り刀として持ち歩き、
あの日も彼の腰に愛用の大刀と共に添えられて、もう二度と見つからなかった。

関ヶ原のとき昌幸は本当は信幸にも一緒に来て欲しかったんだよ！という妄想。
余裕無くて信幸の都合を考えてない手前勝手な昌幸（爆死）
昌幸には信幸が必要だったと思うんだ…信繁がついてきてくれてよかった。
犬伏は本当に切ないわ…

面白いものを見せてやる。
唯でさえ落ち着きのない昌輝がいやに興奮した様子でやってきて、
そう言って昌幸を有無を言わせず引きずって行ってしまったのはついさっきのことだ。


「…これは、また、随分と懐かしいものを。」
「ん、覚えていたか源五郎。お前はまだあの時小さかったのに大したものだなあ。」
「…あれだけの大騒動になれば子供とて何かあったのは分かりますよ。」

まあ何があったのか詳しく知ったのは大分先ですけれどね。
そう言って昌幸が呆れの混じった視線を送れば信綱は顔を少し赤くして頭をかいた。
面白いもの。
連れてこられた先で昌幸を待っていたのは信綱の手に握られた一振りの脇差だった。
一見すれば唯の脇差――いや、紛れもなく唯の脇差であるが、
それはまだ兄弟たちが幼かったときに起ったとある出来事の思い出の品だった。
砥石城攻略での父幸隆の失策で真田家が家中での立場を危うくしていたときだ。
越後から帰還したの親友である山本勘助の助言によって幸隆は海野家再興の旗印を掲げ
忍芽の兄であり幸隆の義兄である河原隆正の助けを得、
また実弟であり当時村上方に組していた常田隆永の調略を試みていた。
しかし母忍芽は兄の助けの確証の不確かさから逸る気持ちを抑えきれず
長男である源太左衛門――信綱を連れて単身常田の元へ向かったのであった。
そしてその先で。

「はは…あの時は俺も怖いもの知らずの小童だったものだ。今思い出しても恥ずかしい。」

懐かしむように脇差を見つめて信綱は笑った。
忍芽と信綱は常田に真田の味方となってくれるよう必死に訴えたが、
逆にその覚悟は真のものかと常田に脇差を突きつけられた。
確かに信綱は父の為家の為、命を懸けても構わないと思っていた。
しかしあのときの自分はやはり子供だった。
実際に脇差を差し出され切腹しろと言われて、恐れを止めることが出来なかった。
脇差に伸ばす手は震え、迷う間に脇差は忍芽に奪われてしまった。
結局忍芽も信綱も命拾いすることとなったが、もしあの時忍芽が脇差を奪わなかったら
そのまま信綱は覚悟を示すことが出来たのだろうか。
自らの若さゆえの甘さと弱さを忘れぬため、信綱は常田に頼んでその脇差を譲り受けたのだ。

「あの時は大変だったな。父上の怒りようが半端じゃなかった。近づくなって言われてたけど
　怒鳴り声が俺たちの部屋まで届いてたぞ。源五郎なんて涙目だったもんなぁ。」
「…昌輝兄はわんわん泣いて自分も行くって止められていたでしょう。”綱兄が死ぬなら自分も”って。
人ばっか揚げ足取らないでくださいよ。」
「お前本当可愛くないなー！あの時は俺の袖掴んで震えてたくせに。」
「な…っ俺はまだ五つかそこらだったんだから仕方ないでしょう！」
「あーもうお前ら落ち着いてくれ…あの時はこの兄が悪かったから…悪かったです。」

当時を思い返して口喧嘩し始めた弟二人を毎度のように信綱は苦笑いしながら宥めた。
まだまだ子供っぽさも残る弟たちだが、あの当時は更に幼かった。
そんな弟たちにそこまでの心配をかけてしまったことも信綱は兄として情けなかった。
そんな信綱の心中を察したのだろうか、昌幸と言い合ってた昌輝が快活に笑った。

「けど俺綱兄が悪いとか情けないとは思わないぜ。そりゃ少しは軽率だったかもしれないけど…
　綱兄も母上も真剣だった、父上を、真田のことを考えてた。俺は綱兄を誇りに思うけどな！」
「だからって昌輝兄は真似しないで下さいよ、あれは信綱兄だからこそであって昌輝兄が
　やったら…そのまま勢いで事を成しちゃいそうですから。…信綱兄が恥じることなんか
　何にもないですよ。」

昌幸の皮肉に昌輝がまた可愛くないな！と反応し昌幸を捕まえてじゃれあい始める。
あまりにそれぞれらしい気配り様に信綱も笑いをこらえることが出来なかった。
腹を抱えて笑う信綱につられて昌輝も笑い出し、初めは憮然としていた昌幸も
ついにはとうとう笑い出してしまった。
そうしてひとしきり三人で笑いあった後、ぽつりと信綱が喋りだした。

「…俺はあの時死ぬのが恐ろしかった。けれど、死んでもいいと思っていたのも真だった。」

手に握った脇差を見つめ、信綱はゆっくりと目を閉じた。

「俺の命で父が――真田の利になるのならば、と思った。俺が死んでもまだ真田にはお前たちが居る。
　お前たちがきっと父を母を真田を支えて行ってくれる。今日立派になったお前たちを見てもそう思うよ。
　例え俺が死んでもお前たちが居れば真田は大丈夫だと。」

信綱の言葉に昌輝が慌てて何か言い出そうとするのを信綱は視線で押し留める。
二人の弟たちの真剣な眼差しを受け止めながら信綱は笑った。

「そう思うが…やはりあの時の俺は軽率だった。あの時死ななくて良かった。こうして生きて、
　お前たちとともに真田のために在れることが俺は何よりも嬉しく、誇らしいよ。」

この脇差は俺の戒めだが――同時に今俺が生きてここに在る事を感じるものでもあるな。
そう言って愛おしそうに脇差を撫でて笑う信綱に昌輝は勿論だ！と声をあげ
昌幸は小さく安堵の息をついた。

「ああ、俺も嬉しい！綱兄が生きていて、今共に戦場を駆けることができるのが本当に嬉しい！」
「まったくです。真田に信綱兄が居なくて昌輝兄が嫡男で俺と信尹だなんてぞっとする。
　信綱兄はもっと自分の重要性を自覚して命を大事にして欲しいところなんですけど。」
「そうだな、綱兄が居ないなんて考えられない。俺は恥ずかしいが綱兄みたいに落ち着いてない。
　昌幸は小憎らしいしガキだし信尹もまだ頼りない。俺たちは皆で丁度いいんだよ。」

思わぬ昌輝の言葉に信綱は目を丸くし、
昌幸もガキという言葉に眉を顰めたが何も言わなかった。
それはそれぞれが妙に納得してしまう言葉だった。
自分たちはそれぞれが生きてそこに在ることで丁度いい――
父が母が一族を、家族を愛すること。
それは情故なのだと言えるけれど、
この戦国乱世で矛盾したその情愛こそが自分たちにとって
この時代に在るための尤も正しい選択なのかもしれない。
あの時の忍芽の言葉を思い出し、信綱は思った。

「…兄弟相争うことこそが罪、か。このような時代だが…真その通りなのかもしれんなぁ。」
「俺たちはそんなことにはならないさ。誰かが欠けてどうする。な、源五郎？」
「当たり前です。俺は信綱兄たちと共に、真田の為武田の為働く所存ですよ。」

珍しく息の合った弟たちの息ごみが信綱には酷く心強かった。
例え信綱が居なくなろうとも、この弟たちが居れば真田は大丈夫だろう。
しかしだからと言って自分の命を軽んじるわけではない。
この弟たちと共にならば信綱は更に高く上れるだろうし、
この弟たちも信綱と共に在るならばそう在れるだろうと思った。
あの時単純に死を恐れた自分は情けなかった。
しかし、結果的に今まで生き延びて兄弟共にここに在ることは間違いではないはずだ。
信綱にはそうやってここに在るものが愛おしく、誇らしかった。

「昌輝、昌幸。」

信綱は弟たちの名を呼ぶ。

「お前たちと共に在ることが、俺の誇りだ。」

その”叔父”に会ったのは一度きりだった。
俺にとっては初めての、恐らく最後になるだろう大戦。
そのつかの間の息抜きともいえる講和のあとに、
大叔父に連れられて俺はかの人に見えたのだった。
白いひげ、そり上げた頭。小柄で貧相、酷くくたびれたその様子は
先の戦で家康様の軍を散々に苦しめた鬼のごとき指揮官とはかけ離れていて、
それでもその人は父上と同じ顔で声で穏やかに微笑み、久しぶりですね、と俺に言った。

「随分と大きくなりましたね。いつの間にか立派に育ってしまっていて驚きました。」

向かい合わせに腰掛けた叔父――真田左衛門佐幸村は信吉に向かって笑いかけた。
ここは徳川軍の真田の陣所、つまり父の名代として従軍している自分の陣所だ。
だというのに緊張しているのは何故だか自分ばかりで、
叔父は講和が結ばれたとはいえいつ襲われてもおかしくのない状況でありながら
その微笑を称えたままのんびりと信吉を見つめている。
その風貌も（失礼だが）あいまって、見るからに目の前の叔父は無防備で無頓着だった。
（…この人が本当に先の戦であの出丸を指揮していた？真なのかよそれは。）
この人が真田左衛門佐幸村――父の弟であることはほぼ間違いなかった。
なぜならかの人は父と双子であり嘗てはその影武者であっただけあって
その顔立ちだけで言うならば驚くほど父に瓜二つであったからだ。
ただしその風貌は大分くたびれていて、歯も抜け髭はもう随分と白い。
弟であるはずのかの人は俺の知る父上よりもずっと老け込んでいて、疲れているようだった。
だのにただの警戒心のない貧弱な老人に見えるはずの目の前の叔父の、
その目の穏やかさがなんだか気味が悪くて酷く居心地が悪かった。

「ああ、貴方は私のことを覚えていないのでしょうね。私が貴方にお会いしたのはまだ貴方が
　乳飲み子であったときのことですから。その時は親父殿―貴方の祖父も一緒だったのですが。」

自分の落ち着きのなさを人見知りと勘違いしたのだろうか、
叔父は苦笑して気が回らなかったようです、と非礼をわびた。

「あ…その、いえ。違うのです。いや、その正直覚えていないのは真なのですが…
　少々気張りすぎているようで、その、実質はじめて叔父上に会うようなものですから。」

半分は真実だったがどちらにせよ酷い演技ぶりだと自分でも眩暈がした。
これでは自分が叔父に対して抱いている疑惑も困惑も筒抜けではないだろうか。
慌てて叔父の様子を伺うが、彼は相変わらず穏やかに笑ってこちらを見つめているだけだった。
年ゆえの余裕なのか、それとも愚鈍か。
おそらく前者（なのだと思いたいが）だがとにかく読めない人だ、と心中でため息をついた。
この人は父とはまったく違う。
父も父で大概扱いにくいものだが、この叔父は意図するところがまったく掴めない。
そう考えるとそもそも何故叔父が寝返るつもりもないくせに
わざわざ立場を悪くしかねないような真似をしてここにやってきたのかも分からなくなってくる。
下策だとは分かりながらも気になってしまう。
ひょっとしたらそれがこの態度の作戦なのでは、と信吉は思った。

「…ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか。」
「ええ、どうぞ。」
「叔父上は、…何故苦労してまで私に会いに来ようとしたのですか？」
「貴方に会いたかったのです。」

即答だった。
しかもあまりに意外に単純すぎる言葉に信吉は暫くぽかんと口をあけたままだった。
そんな信吉を見つめて叔父はといえば、なにかおかしなことですか？と首をかしげた。
おかしいも何も。
続けようとした言葉が上手く出ず、少し困ったような叔父の声に遮られる。

「本当はこんな風に貴方ともう一度会えるとは思わなかった。もう一度…真田の家のものに会えるとは
思わなかったのです。その点で言うならば…ええ、この講和には感謝しなければならないかもしれませんね。」

間抜け面を晒す自分にいたずらっぽく笑い、叔父は少し寂しげに辺りを見回す。
陣に翻る六文銭の旗印をかの人は眩しそうに見上げていた。




（２）に続く…多分。

爺、アキアカネを見ました。と大助が言った。
そうか、美しかったか。と尋ねてやれば子供は屈託なく笑った。
アキアカネ、もうそんな季節かと昌幸は思った。
つい最近まで夏だったように思ったのに。
ここが秋だと言うのならば上田は今頃何時なのだろう。
日は傾きつつあり、山は黒く染まり始めていた。

「アキアカネを採りに行っていたのか。」
「はい。今日は逃しましたが、明日は必ず爺に差し上げます！」
「…そうか、それは楽しみだな。」

だが先に母上に見せてやれ、と頭を撫でてやれば
大助は誇らしそうに子供らしい快活さではい、と答えた。
そう言えば自分も嘗て兄たちに何か採ってもらったことはなかったか。
そして幼い源三郎と源次郎に、自分もそうしてやらなかったか。
それは確かにアキアカネだっただろうか？
もう随分と遠い地の遠い遠い日のことで、上手く思い出せそうになかった。

「大助は元気だな。爺はもうくたびれてしまった。」
「爺は疲れている。もしかして、病なのですか？治りますか？薬はいりませんか？
　俺、何か出来ますか？爺はまた元気になれますか？」

ため息をついた昌幸に大助は慌てて矢継ぎ早に尋ねた。
その遠慮のない様子が僅かに昌幸の心を和ませる。
関が原で西軍が破れ――この九度山に配流されてから、
昌幸の覇気は見る見る消えていったと人は言うし、自分でもその通りだと思った。
日々を力なく無為に過ごし、ひたすら放免を願い待ち続ける姿に
これが反骨精神で天下に名をとどろかせた真田の末路か、と失望して嘲笑う者もいる。
事実疲れた、と昌幸は思う。こちらに移ってからの自分はどうも以前とは違い
扱いづらくなってしまったらしく、旧知の臣か息子の信繁、孫の大助以外のものは
用がなければ寄り付きもしなくなっていった。
息子の疲れた顔を見るのは少々辛かったが、大助と話をするときは自然と昌幸の
心は穏やかだった。大助には自分や息子たちと違い何のしがらみもない。
子供らしいそのあけすけな物言いも、昌幸には酷く心地よかった。

「…大助は、父や母に叱られるのが怖いか。」
「え…あ、ええと…はい。父上も母上も優しいですが怒ると恐ろしいのです。特に母上は怖い。
　静かなのに目が恐ろしいのです。」
「…はは…そうか。…爺も同じだ、叱られるのが、恐ろしい。」

的を射ない質問に驚いていた大助がその答えに更に目を丸くする。
大助は信繁よりも自分や父、亡き兄たちに似ている。だからかもしれない。
こんな話をしようとしてるのは、と昌幸はぼんやり思った。

「だが大助、どうして叱られるのが恐ろしいと思う？説教が嫌か？飯抜きが嫌か？」
「いえ、それも嫌ですが…ええと、怒らせてしまうのも嫌だけど……それで、これで、
　父上や母上が、…俺に愛想を付かせて嫌になったら嫌、だな…って思うから…です。」

まるでバツの悪いことのように（事実そうかもしれなかった）
大助は小さな声で告白し、爺だけにです、内緒ですよ、と付け加えた。
そんなことを言うのは恥ずかしいと思っているのだろう。
幼く可愛らしい孫の言動に勿論だ、約束しようと笑った。
なにせ自分がこれからこの孫に語ろうとしていることはもっと恥ずかしく、みっともなかった。
もう孫を持つような年になっても、嘗て父や兄、同僚や妻にまでも
揶揄された自分の大人気なさは変わっていないのかもしれないと思うと
どこか可笑しくて、笑い出しそうだった。

「…爺も大助と同じよ。爺も叱られるのが恐ろしい。許してもらえぬかも知れぬことが恐ろしい。
　恐ろしい恐ろしいと怯える内にくたびれてしまった。」

半ば自嘲するように吐き出した言葉はすとん、と昌幸の胸に落ちて広がった。
それは紛れも無い恐怖だ。恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい。
嘗て戦場を駆けたときの死の恐怖よりも何よりも、昌幸はただ恐ろしかった。
その恐ろしい夢を九度山に来てから毎晩のように見るようになった。
今更何を、とも思う。言い訳の言葉も見つからない。
全てを覚悟してあの日上田に走ったのではなかったか。
そもそも何を謝るというのだろうか。
そもそも何に許しを請うというのだろうか。
それすらも曖昧だというのに、昌幸の胸から恐怖が消えることはなかった。
黙ってしまった昌幸を不安げに大助が覗き込む。
気遣ってくれているのだろう、息子と嫁に良く似た、心優しい子供だった。

「…爺は何か悪いことをしたのですか、誰かに叱られるのですか。」
「ああ。とてつもなく沢山…いや、何もしていないと言うべきなのかもしれない。
　当の爺にもよう分らんのだ…だがきっと、叱られる。」

まるで昔話でも聞かせるかのように昌幸はそういい、目を閉じた。
九度山に来てから毎晩のように見る、極彩色の夢。
それは甲府の夏であり、上田の夏であり、翻る旗と軍馬の嘶きの夢だった。
目を開ければそこは寂れた山の中だ。
隣では愛しい孫が心配そうにこちらを見上げている。
夢は終わっても恐怖の余韻は消えなかった。
何を恐れているのか、本当はその答えをずっと前から知っているように思う。
秋の訪れを告げる涼しげな風が無言の二人をすり抜ける。
と、意を決したように顔を上げた大助が痩せた昌幸の手を取った。

「では、謝りましょう。悪いことをしたら謝るのだと父上も母上も申しておりました。
　心のそこから謝って気持ちを伝えるのだと。父上も母上も、許してくれます。」

気落ちしてしまった祖父を元気付けようと大助は精一杯明るく笑って祖父の手を振る。
その笑顔が遠い昔の誰かと重なって、昌幸の胸は酷く軋んだ。
瞼の裏で夢がちらつく。
ああ、謝りたい。謝りたい。
跪いて、地に頭をこすり付けて、何度でも何度でも―――

けれど、謝りたい相手は

「それすら、俺にはできんのだな。」

気を使わせてしまったなぁ、と昌幸は笑ってそっと大助の手を外し
その小さな頭の上に自分の掌を乗せた。
愛らしい子供の顔が悲しげに歪められてしまっているのを見て
申し訳ないことをしてしまった、と思った。
あとで息子たちにも謝らねばならないかもしれない。
辺りはいつの間にかもうすっかり暗くなっている。
九度山に流されてもう数年が経つけれど
一向に慣れることの無い闇の気配だった。
その闇に任せて、ゆっくりと目を閉じる。

それは甲府の夏で、上田の夏で、翻る旗と軍馬の嘶きの夢だった。
父がいて、兄たちがいて、仕えるべき主がいて、尊敬すべき人々がいて、
愛すべき土地が、民が、家族が、夢があって、そして

目を開ければそこはやはり紀州の闇の中だった。
そこがあの夢のままならば、と僅かばかり期待してしまった
自分の愚かさを恥じ入りながらも、昌幸はそう思うことを止められなかった。
自分が間違っていたとは思わない。
あの時織田へと通じる決断が早かったからこそ、真田は残った。
天下分け目の賭けには負けたが、まだ真田には信幸がいる。
あのときの決断も、今までの道のりも間違いではなかった。
間違いではなかった。間違いではなかった。間違いではなかったけれど。

俺は一体、何をしてきたというのだろう。

周囲の民家には明かりがともり、
屋敷からも夕餉の支度だろう、良い香りが漂ってくる。
いつの間にか握りなおされていた手を弱く優しく握り返しながら
昌幸は大きな闇の塊となった山々を見ていた。
あの闇をいくつ越えれば、自分はかの地に戻れるのだろうか。
そして、かの地に戻ることが出来たならば自分は。
大助の手をとって立ち上がる。
そろそろ夕餉の時刻だ。
泣きそうな大助の手を引きながら、
明日はアキアカネを爺に見せておくれ、と昌幸は笑った。
大助は浮かびかけた涙を乱暴にこすって、はい。とはっきり答えた。
廊下の向こうから二人を呼ぶ声が聞こえてくる。
いつもと変わらぬ、九度山の一日が終わろうとしていた。

漠然とした恐怖に身を削られると分っていながら
今日も昌幸はあの夢を見たいと思うだろう。
そして思う思わないに関わらず、あの極彩色の夢はやってくるに違いなかった。
ただただ、昌幸は遠い夢の地に帰りたかった。

ウチの昌幸は無意識に盛大に武田家を引きずっている人。
信綱や昌輝、勝頼のことも無意識にずーっと引きずってたらいい。
武田家の亡霊みたいな人。